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杉田 直樹

ヴァイオリン売買のコンサルタント

杉田 直樹 すぎた なおき

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事例・コラム

2018/10/01 14:25

日本人とヴァイオリン~その黎明期を探る (その3)

3.鈴木政吉 ヴァイオリンとの出会い

政吉は江戸幕末期、安政六年(1859年)に現在の名古屋市東区に生まれる。尾張藩士であった父正春の家禄は乏しく、禄で生計をたてるのは困難だったため、 内職として琴・三味線作りで家族を養っていた。明治維新という大きな政変による身分の変化と貧窮から、いつしか父の内職は家業となり、政吉もそれを手伝うことになる。その後、東京浅草の塗物商の奉公人として上京するも、3年後には帰郷し、家業の三味線造りに従事する。明治17年(1884年)に父が病死すると、家業一切を背負うことになるが、不況と鹿鳴館を象徴とする西洋文化の流入は、和楽器の需要難に拍車をかけるものとなっていた。
そのような中、若い頃から長唄に素養のあった政吉は生活安定のために音楽教師になろうと、愛知県師範学校音楽教師恒川鐐之助の門を叩く。そしてそこでの運命的な出会いこそが、同門の甘利鉄吉の持っていた松永定次郎作の和製ヴァイオリンだったのだ。このヴァイオリンとの出会いが政吉の運命を決め、彼はここからヴァイオリン製作に生涯を投じることになる。それを参考に作られた政吉製作第1号、明治20年(1887年)のヴァイオリンは鈴木バイオリンに今でも大切に保管されている。なお、記録では明治20年だが、保管されている箱書は明治21年完成とされ1年の誤差がある。この楽器、主要部全ては本来の材料ではなく、カツラ材を使用して製作されている可能性が高い。現物を見ながら、なんの手順も分からずに手探りで作られた楽器である。先日驚きを持って拝見したところだが、私はその執念に心からの敬意を表したい。