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杉田 直樹

ヴァイオリン売買のコンサルタント

杉田 直樹 すぎた なおき

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事例・コラム

2018/10/01 14:25

日本人とヴァイオリン~その黎明期を探る (その4)

4. 「マサキチ・スズキ」ブランドとしての発進

彼の凄さは、その熱心な研究心であった。1作目を作った後、短期間で2作目、3作目を製作しており、これらも歴史的な資料として現存している。そこには顕著な進歩を見て取れるのだが、明治23年(1890年)に東門前町に仕事場を移した頃には、未完とはいえ、ほぼドイツのマルクノイキルヘンで生産されたような雰囲気を持つものが出来上がっている。実際に岐阜県師範学校にあった舶来品(ドイツ製と考えられる)を研究材料にしたことも記録されている。マルクノイキルヘンとはドイツ東部にあるヴァイオリンの街で、主に分業工程を経ながら量産製作をし、楽器を仕上げるスタイルを取ったことで知られる。フランスのミルクール、ドイツのミッテンヴァルトと並び、19世紀の後半からヴァイオリンの大量生産を産業とした街である。
政吉は、この年に初めて内国勧業博覧会に出品するのだが、翌年にはさらに工場を拡大し、さらなる生産、研究を続ける。政吉が目指していたのは、個人的製作ではなく、日本の楽器需要を見込んだ、大量生産体制の確立であったと言えよう。
その成果は、この第3回内国勧業博の有功賞(明治23年)、その後の北米コロンブス世界博の賞牌(明治26年)、第4回内国勧業博の進歩賞(明治28年)受賞という形で表れ、輝かしい船出となった。
政吉の生きた時代は、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦による恐慌と好景気に揺れ動く時代であった。我が国での芸術や西洋音楽文化の発展、それを取り入れた民衆音楽の発展、和洋楽器合奏などを民衆が楽しんだのもこの時代である。私の先祖もそんな時代に、少なからずヴァイオリンに触れる環境にあったので次項で紹介したい。